『彼岸花』下
翌朝。
テラスに出て朝日の昇ったばかりの茜色の空を見ている我愛羅。
‥‥我愛羅はすでに
の情報を手に入れていた。
ごく普通の家庭に育ち、両親は早くになくしたものの(この里では珍しくもないことだ)、ごく普通に成人し、今と同じように図書館で司書をしていた彼女。
忍者の世界では文書をなるべく残さないように、というのが原則ではあったのだが、砂ほどの大国になれば資料は膨大、個人の記憶に頼るにも限度がある。
勢い巻物、書物の類いは増えるばかり。
最近の資料であれば、すでにコンピューターに入力済みであるから、個人でも探すのにさぼど苦労はしないが、時代をさかのぼるほど的確な資料を見つけるのには苦労する。
資料の存在自体見つけるのが難しい。
そんなとき、彼女には天性の勘のようなものがあるのか、泳ぐように書庫の中を一周、二周とするうちに探している資料を見つけてくれるのだ。
‥‥我愛羅も経験済みだったように。
そして、彼女の腕に同じように入れ込んだ暗号解読の第一人者がいた。
‥‥上忍であったこの男と彼女が、こつ然と姿を消したのは例の里の危機の直後。
抜け忍となったこの男によって、どさくさまぎれに敵陣に連れ去られたらしい。
‥‥というのが通説だったが、我愛羅は直感でそれだけではない、と思った。
神経をすり減らす仕事をしていた男が
の腕にだけでなく、女としての彼女に惹かれたのは容易に理解できる。
‥‥あの、笑顔と、人を拒絶しない柔らかな心。
二人は恋仲だったのだろう、と不承不承思った。
子供の父親も、おそらくは彼だ。
しかし、彼女は子供のことがなければ帰りたくはない、と口走った。
このことが我愛羅にひっかかった。
‥‥人にはいろいろ事情がある。
余計なお世話ではないか。
そう自分に言い聞かせながらも腑に落ちない。
一度裏切って里を抜けた者は、落ち着いた先でも冷遇されることが多い。
この上忍が例の里でそういった扱いをされているとしても不思議ではない。
が、それならば、なぜ彼女が人質としてこの里へやってくるのか。
妻を人質として差し出せるのは、それ相応の身分の者だけだ。
その答えは、その夜再び揃って書庫を出た後、彼女の口から直接聞くことになった。
月の明るい夜だった。
のお気に入りだと言う赤いカーディガンがことさら鮮やかに見え、気のせいか少し青白い顔ときわだった対照を見せる。
「‥‥若かったんです、私も。
疑うことを知らなかった。
彼のことを‥‥好きだったし‥‥子供もお腹に‥‥
まさか、彼が里を裏切っていたとは‥‥
でも、むこうへついてしばらくした後、彼は姿をくらまし、私は‥‥」
「もういい」
我愛羅は遮った。
いまさら過去をほじくりかえしてどうなるものでもない。
傷口の中に何か異物があると分かっていても、そのままにしておいた方が痛みが少ないことだってある。
しかし
はやめなかった。
「彼を引き抜いた上役に、‥‥拾われたんです‥‥
私たちの子供は取り上げられてしまった‥‥そいつの子供として‥‥正妻との間に子供がいないからと‥‥
私は私で、体よくそいつの『第2の妻』として人質の『仕事』を割り当てられたって訳です。
子供を人質に捕らえている以上裏切ることはないから、と」
我愛羅は思う。
不幸な子供時代を送るのと、大人になって後、経験したことのない絶望を味わうのとどちらがましなのだろうか、と。
「そのうち、彼が、上忍だった彼が、本当は姿を消したのではなく始末されていたことを知りました。
だから、私が生き残っているのは、単に偶然でしかないんだと悟ったんです。
人質としての役目があるから、こうして生きていられるのだと。
自分がただのコマになったような気がしました‥‥本当につらかった‥‥
でもこの里に戻って来て、割合早くもとの仕事に戻していただいて、連日古い本の中をさまよううちに、なんだか傷が癒えていく気がしました。
昔から人の苦しみなんて変わってない‥‥
私なんかよりもっとひどい目にあった人達がりっぱな本を残している‥‥
‥‥我愛羅様、あなたも、私に希望を下さった一人です‥‥
私なりに、こちらへお邪魔させていただいている以上、風影様のことは調べました。
‥‥つらい過去をお持ちになりながら、りっぱに里を統治されている。
‥‥私も強くなろうと思いました‥‥」
は自分のことを知っていて、それでいて、拒むことなく畏れることなく、自然に接してくれていたのだ。
我愛羅は驚きとともに心のつかえが降りたような気がした。
「子供の顔は見たいです‥‥‥。
もうずいぶん大きくなったでしょう‥‥。
でも‥‥母親はお前を捨てた、ぐらいにしか教えてもらってないだろうし‥‥
もしかしたら私は赤の他人になってるかもしれない‥‥
会うのが怖くもあるのです。
ここにいた方がいいのでは、とも思うのです」
戻ったところで正妻ではない。
しかし4年が経った今、人質としての期限はもうぎりぎりだ。
彼女はどこにも居場所がないまま、この図書館で故人達の残した遺産の間をさ迷い、運命に弄ばれる己の身を少しでも忘れようとしているのだろうか。
言葉が見つからないまま、秋風が吹く夜道を歩く。
「‥‥悪かった‥‥古傷を‥‥」
「いいえ、私が言い出したことです。
聞いていただいて、なんだか、すっきりしました」
目を伏せながらつぶやく
。
短いやり取りの後はまた、言葉が途切れる。
今夜は空も晴れ渡り、星も月の光に遠慮しながらもきらきらと瞬いている。
ふっと空を見上げて我愛羅がつぶやく。
「‥‥今見ている星の光は死んだ星の記憶だと、聞いたことがある」
「星はずっと昔に消滅してしまっていて、光だけが今ようやくここへたどり着いたって、ことですか」
「まあ、そういうことだな。
何が本当でなにが偽物か、なんてそうわからないもんだ」
しばらく黙っていた
だったが、我愛羅を見てにっこり微笑む。
「でも、そんな過去の光だけれど私たちに感動をくれますよね‥‥」
「‥‥」
「誰か、大切な人を失って‥‥でも、その人の思い出が、生きる力を与えてくれることってありますよね‥‥」
「‥‥」
「なんだか、それと星の光って似てるような気がします‥‥
私たちはひとりぼっちのようで‥‥‥実はそうではないんだと、思います」
は、我愛羅は思う、どんな状況でも自然と救いのある局面を探し出す力を持っている、と。
しなやかな中に秘められた強さ。
だからこそ、自暴自棄にならずにどんな時でも、あの微笑みを浮かべることができるのだろう。
ややあって、また
が話し始める。
「以前、ご自身のお名前について説明して下さいましたよね」
「‥‥俺のこの、名前についてか」
「はい、我愛羅、というのは我のみ愛する修羅だ、と」
「ああ、言った」
「‥‥それ、違うと思います」
面食らう我愛羅。
「すいません、偉そうに。
もちろん、そうとも取れますけど‥‥」
は最初はためらいがちに、でもきっぱりした口調で続ける。
「でも、聞いたんです、お母様の加流羅様がつけたお名前だと。
‥‥私も母親ですから‥‥
ならむしろ、我は愛を羅するもの‥‥つまり、愛を包み込む人、って意味じゃないかな、と‥‥。
愛に恵まれた子供になりますように、って。
‥‥母親は‥‥どんな子供でも‥‥可愛いはずですから‥‥」
そこまで言うと、
はぺこりとお辞儀をして走り去った。
彼女の赤い服の残像がいつまでも我愛羅の目に残った。
その赤い色は、いまなお暗闇に支配されそうになる我愛羅の心で小さな炎となり、そこに消えることのない暖かな光をともした。
次の日。
書庫に
の姿はなかった。
その次の日も。
代わりにいた者に聞くと口を濁して何も言わない。
ひょっとして帰国する日が近いのか。
だから、きのう、身の上話なんかを自分から言い出したのか。
我愛羅に焦燥感がつのる。
いつも当然のようにあった
の姿が見えないだけでこんなにも心がざわつく。
‥‥あの、例の男のところへ、帰るのか。
ここよりも居場所のない他人の里へ。
の置かれるであろう境遇を思うだけではらわたが煮えくり返った。
ルールはルール、風影ともいえ、権限外であることは重々承知している我愛羅だったが、このまま何もせずに手をこまぬいていること等できなかった。
のいる家に彼が音もなく姿を現したのは真夜中をまわっていた。
非常識な時間だとは承知していたが、昼間抜け出られる訳がない。
気配を伺うものの彼女はいない。
こんな時間にいったいどこへ、と思う間もなく
が帰って来た。
玄関先にいる人物を見て息を飲む。
「どうして、ここへ!誰かに見られたらどうするんです?!」
じっと自分を見つめる我愛羅の瞳にまけて、
はうつむきながら小さな声で言う。
「‥‥お別れを‥‥この里に‥‥してきました‥‥」
「戻るのか」
我愛羅はいきなり核心にふれた。
うつむく
。
「どうぞ‥‥中へ」
促されるまま室内へ入る。
窓からはカーテンが外され、クモがすでに小さな巣をはっている。
がらんとして、以前入った時とはまるで違う。
生活のにおいがほとんどない、‥‥帰国が近いのだ。
赤い彼岸花だけが前と同じ場所にあり、ここは確かに
の部屋だ、と告げている。
「戻ってどうする」
残酷な質問なのは百も承知だった、が、我愛羅にも
にも時間がない。
びくっと
の肩が震えた。
「さあ‥‥4年前と同じように、でしょうか‥‥」
「それでいいのか?ここに残りたいなら、可能性はある。
お前はもともとこの里の出身者で忍びではない上、公式には拉致されたことになっている。
書類上操作してこちらへ留め置くぐらいなんとでもできる。
仕事もできるし、こちらにとっても
が残ることに異存はない」
堰を切ったように話す我愛羅。
「‥‥ありがとうございます‥‥でも、子供がつらい思いをすることになります‥‥」
の言葉を知らず知らずきつい口調で遮る。
「子供?
お前のことを母親だと知らされていない子供がか?
違う女が母親になっているんだぞ。
お前のこと等、人質だとしか思っていない。」
図らずも本当のことを言ってしまった。
この何日かで我愛羅が捜査網を駆使して調べた結果だ。
の瞳が曇る。
「やはり、そうなんですね‥‥」
「‥‥すまない‥‥黙ってみていられなかった‥‥」
我愛羅の口に後悔の苦みが走る。
「いいえ、予想はしていました‥‥
でも、それでも、私が帰らなければあの子は‥‥
あの気まぐれな男の心持ちひとつで始末されてしまうかもしれない。
そんなことはできない、たとえ私があの子にとっては赤の他人でも、私にとってはやはり、自分の子供なんです」
彼女の答え等聞かなくても分かりきっていた。
あの夜、我愛羅に、子供を残して死んだ加流羅の思いを一生懸命代弁したのは
だった。
いまとなっては知るべくもない真相だが、ややもすれば凍えそうになる我愛羅の心に消えることのない小さな暖かな明かりをともしてくれたのは彼女だ。
「‥‥帰るな‥‥帰らないでくれ‥‥」
絞り出すような声で我愛羅が言う。
大の男が、と自分でも承知している。
言っても無駄だと分かってもいる。
けれど声にださずにはおられない。
風影としてではなく、ただの一人の男として、彼女を自分のそばにつなぎ止めたい。
そんな我愛羅の思いを包み込むように
が言う。
「‥‥お慕い申しておりました、我愛羅様。
嬉しかったです‥‥
一生懸命、風影としての使命をはたそうと努力を怠らないあなたのような方とお近づきになれて。
この4年間で今ほど幸せだった時間はありませんでしたから。
いつも頭を離れなかった子供のことを‥‥正直、忘れてしまったこともありました‥‥
帰りたくない‥‥いつまでもここにいられたなら‥‥
でも、それでも、帰らなければ‥‥私の幸せの影で子供を失うようなことがあったら‥‥
今後の人生は闇でしかなくなります‥‥」
「お前の、自分自身の‥‥女‥‥としての幸せは‥‥どうでもいいのか‥‥」
を苦しめることになると分かっていながらも、なんとか思いとどまらせたいという思いが我愛羅の口からとげのある言葉となり吐き出される。
「‥‥仕方ありません‥‥この、里を捨てた時に‥‥私の運命は決まったんだと‥‥」
そんなあきらめの言葉を、
の口から聞きたくなかった。
だからどうしろ、という提案等何もできない。
この里を背負う風影と言う重責が我愛羅の肩にある限り。
我愛羅にできたのは、黙って
のか細い体を抱き寄せ、彼女の口を自身の唇で塞ぐことだけだった。
「いけません‥‥我愛羅様‥‥私なんかのことは、忘れて下さい‥‥」
我愛羅を押し返し、力なく抵抗する
。
「お前は‥‥何も持ち出すことも、おいていくことも許されていないのだろう‥‥思い出以外は‥‥」
人質とはそういうものなのだ。
そこにいる間だけ存在する人間。
ある日突然いなくなり、何もなかったかのようになることを義務づけられた存在。
我愛羅は
の両手をつかみ、目を正面から見据えて言葉を絞り出す。
「この一夜だけ‥‥俺にくれ‥‥。
あとは‥‥子供に‥‥だが、この夜だけは‥‥俺に分けてほしい‥‥」
の目から涙があふれる。
「私も‥‥あなたの‥‥思い出が欲しい‥‥。
我愛羅様‥‥あなたを‥‥」
その言葉を最後まで待つことなく、2人は闇に沈んだ。
赤い彼岸花を繰り返し夜の闇に咲かせながら。
クモのかけた繊細なレース編みの上の水滴が、生まれたての太陽の光をうけてキラキラ輝き始める。
「我愛羅様‥‥もうお帰り下さい‥‥じき、迎えのものが来ます‥‥」
うつらうつら夢見ごこちの我愛羅の耳に
がそっとささやいた。
我愛羅は
の体をぐいっと自分の腕の中に閉じ込め、いやだいやだをするように、
の耳元に顔を埋める。
「我愛羅様‥‥あの、彼岸花を預かって下さい‥‥
この部屋においておいたら処分されてしまいます‥‥どうか、お願い‥‥
あの花、彼岸花は、繰り返し咲きます‥‥
生きていれば、必ずまたお会いできます‥‥
それまで‥‥いつも思い出して、とはいいません‥‥
せめて、この花が‥‥一年に一度、まるで‥‥彼岸から突然蘇るように花開くときだけ‥‥
私のことを一瞬でもいいから‥‥思い出して下さい‥‥」
「心配するな‥‥俺が預かる。
必ず‥‥戻って来い‥‥」
我愛羅は返事をささやくと今一度
を強く抱き締めた。
翌日、
は正式に里を出た。
我愛羅は見送らなかった。
彼女もそれを望んだ。
人質が一人帰ったと言ってこの里は何も変わらない。
資料室にはもう、新しい司書が入った。
変わったことといえば、我愛羅のいる執務室に鉢植えが一つ増えたこと、ただそれだけ。
もう花の散ってしまったその植物がなぜここにあるのかは、我愛羅と
以外誰も知らない。
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蛇足的後書:弊サイト8000ヒットキリリク作品。
『背徳』『家庭持ちのヒロインに手を出してしまう我愛羅』がキーワードでした。
喜び勇んで引き受けたくせに、遅れに遅れた上、この暗く長く山場のないお話をキリリクとしていいのかと真剣に悩みましたが、
私の今の実力じゃこれが限度です、玉砕‥‥。
虎にょろ様、お許しを!こんなお話ですがご容赦いただけるならどうぞお持ち帰り下さいませm(_ _)m
いつかはさらさらと風影様を書ける実力者になりたいです〜(TT)。