我愛羅の海 #6
波打ち際から少し離れたところに傘がぽつりと一つ。
秋も深まりつつあるこの季節にしてはかなり薄着の少女がその中に一人佇んでいる。
寄せては返す波をじっと見つめているその瞳は紅く、時折吹いてくる身を切るような潮風になぶられる髪はほぼ白髪と言っていいほどの色素の薄さだ。
本来なら満月を迎えたであろう夜だが、あいにくの雨。
真夜中の海辺には当然彼女以外人影もない。
待ちに待ったこの日が雨になることは、もう、天気予報等見なくても雲や風の動きで、
は前日から百も承知だった。
が、だからといって簡単にあきらめられるものでもない。
無駄を承知で海辺へやって来たのだった。
朝焼けなんか、正直どうでもよかった。
ただ、我愛羅ともう一度会いたかった、それだけ。
「やむわけないか‥‥来ないだろうな、我愛羅は‥‥」
手に持った花束に目を落とす。
深紅のバラ。
普通は男が女に渡すものだが、そんなことはこの際、
にとっては関係なかった。
自分の気持ちを何かに託して、我愛羅に伝えたかったのだ。
「朝焼けを見せにくる、っていってたもんな‥‥。
この天気に朝焼けもへったくれもないし」
は海の方へすたすた歩いて行って、バラを一本抜き取り見つめていたが、やおら花びらをちぎり始めた。
花占い、という訳でもないようだ。
ただ、暗い波間に花びらがゆらゆら揺れるのを見ていたいだけらしい。
普通の人には暗すぎてほとんど見えない風景だろうが、暗い方が目が利く彼女にはその様子がよく見えた。
花びらは波に寄せ集められては散り散りに離され、を繰り返しながら、岸から遠ざかったり近づいたりしている。
2本目を抜き取った時にどうやらとげで引っ掻いたのだろう、
は小さく悲鳴をあげた。
「‥‥っつ‥‥」
反射的に指をくわえる。
以前我愛羅と砂山を作った時に、なにかの虫にさされた
の指を、我愛羅が同じようにして毒抜きをしてくれたことを、いやでも思い出さずにはおられない。
我愛羅と別れてから、月の満ち欠けが一巡するまでの長かったこと。
誰かがくるのをこれほど待ちこがれたことは記憶に久しかった。
あまり期待してはいけないと、自分で自分をいさめつつも、月が少しずつ満ちてくるにつれ、自分の中の想いが膨らむのは押さえられるものではなかった。
もし、来なかったら‥‥その時はその時、と割り切る自分と、そのことにひたすらおびえる自分と。
相反する感情のせめぎ合いを繰り返しながら、今日の日を迎えたのだった。
そぼ降る雨が海面を叩きつづけ、待ち人は現れない。
いや、現れないことはもとよりかっているのだが、
は想いをあきらめきれないままだ。
我愛羅が約束を守ることを疑っている訳ではなかった。
ただ、彼が帰ったあと、
が忍びについて少しでも知識を得ようと文献を漁り、いろんな人に尋ねた結果得た答えは、忍びの任務の過酷さ、多忙さ、そして我愛羅のおかれているポジションの難しさだった。
そんな人がわざわざ、この雨の中、いくら約束したからといっても、自分とのたわいもない約束を果たすためだけに来てくれるかどうかはまったく自信を持てなかった。
ふと、イルカはどうしているかな、と頭をよぎった。
ここのところ姿を見かけることがほとんどなく、寂しいながらもきっと仲間と回遊にでもいってしまったんだろう、と考えていたのだが、なぜか今、どうしているか気になったのだ。
もしかしたら前よくしていたようにあの隠れ家で休んでいるかもしれない、と思い立ち、
は浅瀬を水を跳ねかしながら岩伝いにくだんの洞窟までやって来た。
秋も深まった今、水の冷たさがむき出しの足にこたえる。
が、現れない人を待つつらさを頭から追い出すにはちょうどいいように思えた。
月もない夜なので、さすがの
にも目が慣れて中の様子がわかるまで時間がかかった。
そこには、イルカと、待ちこがれた人がいた。
「我愛羅!」
思わず大きな声で叫んで、彼の元へ駆け寄った。
我愛羅は
の方を振り向き、一瞬嬉しそうな表情を浮かべたあと、うつむいて言った。
「‥‥すまない、
」
「何?何あやまってんのさ、来てくれたんじゃない!」
嬉しさを隠そうともせず
が我愛羅の顔を覗き込む。
我愛羅の視線の先には‥‥
動かなくなった白いイルカが水に横向きに浮かんでいた。
「‥‥もう少し早く来ていれば、助けられたかもしれない‥‥」
は目の前の光景が信じられず、イルカに近づき、そっとその体に触れた。
冷たい‥‥
イルカの横腹には深い傷痕があった。
「‥‥多分、仲間と回遊中にシャチかなにかに襲われたんだろう。
俺が来た時にはもう、ほとんど息がなかった」
の背中に向かって我愛羅が淡々と説明する。
「ここへ、戻って来たんだね‥‥最期だと分かって‥‥」
もうもぬけの殻になってしまったイルカをなでながら
が誰に言うともなくつぶやく。
「‥‥私は間に合わなかったけど‥‥我愛羅は、じゃあ、コイツの最期を見届けてくれたんだよね?」
「‥‥ああ‥‥」
「ありがとう‥‥ひとりぼっちで逝かないですんだんだ‥‥
コイツは、‥‥初め‥ての‥‥私の友だち‥‥」
言葉は続かなかった。
口をふさぎ、嗚咽を押し殺して
が泣く。
思いもかけない突然の喪失。
声は押し殺せても涙は次から次へとこぼれ落ち、雨のふることのない洞窟の水面に次々波紋を生む。
喪失とか、孤独とか、裏切りとか、ありとあらゆる寂しい感情と常に隣り合わせに生きて来た我愛羅には彼女の心の痛みはいやというほど分かった。
自分はこんな痛みには慣れっこになっているが、彼女はそうではない‥‥
そう思ったとき、我愛羅の心の中に今まで経験したことのない感情が生まれた。
どうすればいいのか分からないまま、
の隣へ行き、黙って彼女の肩に触れた。
「‥‥泣きたいなら、思い切り泣けばいい。
お前の親友だったんだ、悲しい気持ちを隠すことなどない。」
自分の肩に置かれた我愛羅の手に、
は今まで口を覆い隠していた自分の手を重ねて、泣き続けた。
‥‥歯をくいしばって、嗚咽を殺して。
その痛々しい姿に我慢ができなくなった我愛羅が乱暴に
の両肩を掴んだ。
「なぜ、悲しい気持ちを隠す?
俺に言っただろう、感情を殺すなと?!
わめけばいいじゃないか、泣き叫べばいいじゃないか、嘘つきはお前だ、
!
溝を作っているのはお前自身だ!
‥‥隠さないでくれ‥‥‥‥感情をぶつけたからといって、俺は逃げやしない。」
驚いた
が我愛羅の瞳を正面からまっすぐ見つめる。
うそのない、それでいて、人生の裏側をいやというほど見て来た悲しみをたたえた大きな瞳。
それでも、まだ、人の悲しみまで引き受けようと言うのだろうか。
我愛羅は何も言わない。
でも、彼の瞳は物語る。
の悲しみを、一緒に背負うと。
は一旦息を止めたかと思うと、目を閉じて我愛羅の胸に飛び込み、堰を切ったように大声で鳴き出した。
泣いても泣いても、もう親友は帰ってこない。
奈落に落とされたかのような喪失感。
涙を流せば流すほど、感情の渦に溺れそうになる。
感情を素直に出すことになれていない
がここまで泣くことはまずなかった。
けれど、今日は、もうかまわないと思った。
溺れてしまっても、すがりつく手が差し伸べられているから。
の背中にまわされた我愛羅の手は優しく、温かだった。
蛇足的後書:長いブランク、申し訳ありませんでした。
なかなか続きがまとまりませんで、これでも何回も書き直したのですわ、この程度ですが‥‥ んで、まだ続くのです‥‥
我愛羅って苦しんだ分、すごく包容力あると思います。飾らない本当の意味の優しさを持った人だろうと。