「羨ましかった……――

――……あなたが

どこまでも真っ直ぐな……」


どこからか声が聞こえてくる。
それに重なる照れたような、満更でもない声も。


彼女に許されるのは
それを風の独り言とする事だけだった。



鼓が啼く刻





 どんっ、と雷が落ちてきたようだった。



 いつものようにいつものコースで、「おっ買いっ物っ」と景気よく音符を撒き散らしながらの八百屋からの帰り道。
 花屋の角を曲がって――

 彼女――の足は止まった。

 スキップのため左足が中途半端に浮いている。重力に反したような絶妙なバランス感覚だ。
 彼女のように重力には逆らえないごく普通の買い物籠は、慣性の法則に従って進行方向へと揺れた。勢い余って、いくつかの檸檬が飛び出すが、彼女はそれに構う余裕などない。
 そこは軽い坂道になっており、蛇行しながら檸檬は下ってゆく。

 その檸檬の向かう先。
 ころころ。ころころ。

(な、ななななななななななななっ!!?)

 彼女の瞳孔は驚愕のために、開いたり閉じたりと忙しい。
 瞬きすらせずに限界まで見開いたままの彼女の瞳は潤いを欲していたが、彼女はそれを断じて許さなかった。
 目の前の光景を一瞬たりとも見逃すまい。
 そんな心意気が彼女の全身から溢れ出している。
 心とは裏腹に、彼女の身体のほうは――特に足と瞳は救難信号を出していたが、強靭な心には無駄な抵抗であった。
 は、止まったままに、若干身体を震わせながら、前方を注視していた。

 膠着状態はそう長くはない。
 せいぜい十秒程度だ。
 それでも、檸檬は彼女の視線を負う者達のもとへ、彼女の代わりのように辿り着く。

 ころころ。ころころ。

 に視線を送られていたのは、二人。
 正確に言えば、二人の後姿である。
 仲睦まじい様子で、肩なんぞ組んでいたりしている二人組。
 は、彼らに見覚えがあった。
 いや、見覚えがあるどころか、彼らの片割れには毎日のように視線を送っている。

 忘れもしない。
 黄色いツンツン頭。
 橙色の独特の服。
 どこか特徴的な歩き方。

(〜〜〜〜〜〜〜っナルトくんっ!!!)

 彼女が心の中で悲鳴を上げても彼には届かない。
 それでも、は、ナルトが好きだった。
 彼に注目したのは――そう、もうずっと前になる。あまりにも前すぎて、何で好きになったのかはわからないくらいだ。
 ヒナタのように引っ込み思案でない彼女は、ナルトにアタックをそれは毎日のようにしていた。
 鈍感な彼は気付かなかったけれども。
 彼女の気持ちに気付いていないけれども。
 ヒナタの気持ちにも気付いていなかったけれども。

 そんな彼女の目には、今、彼女にとって最も残酷な1シーンが繰り広げられている。

(い〜〜〜〜〜や〜〜〜〜〜〜ぁっ〜〜〜!!!!!)

 いくら心中で叫ぼうとも彼らには届かないだろうに、叫ばずにはいられない。そう。これが叫ばずにおられようか。
 ただ、頭の中で、警鐘が鳴っていたが、はそれを無意識のうちに無視をした。

(どうして、どうしてなの、ナルトくんっ!?)

 声にならない彼女の叫びは暴走する。

(どうしてそんなヤツと肩なんて組んでるのよ〜〜〜〜〜っ!!??)

 彼女の瞳に映ったのは、黄色のツンツン頭と黒髪のツンツン頭――すなわち、ナルトとサスケ。
 その二人が寄り添うように密着して肩を組んでいるのである。
 しかも、互いに相手を労わるように優しい雰囲気で。
 ……少なくとも、にはそう見えた。
 一瞬、サスケが誰かと重なったが、彼女は無理矢理その思考を追い出した。
 逃れるように、そういえば、と彼女は思い出す。
 ナルトとサスケの仲が怪しい、と一部の女子が騒いではいなかっただろうか。
 確か彼女たちは、その仲を描いた小冊子を発行して売り捌いていたような記憶もある。ある時、それを偶然目にした事があったが、あれはすごかった。
 ああんなことやこおんなこと。
 乙女の恥じらいはどこに、と思わず疑問に思ってしまうような内容だったのだ。
 しかし。
(……それが現実だったなんて!!!)
 は、信じられなかった。
 だが、檸檬を足元に、彼らは密着ラブラブモード(視点)である。

 彼女の頭の中に、いつぞや目にした小冊子の中身がありありと再生されていく。
 話題のDVD録画再生機もびっくりの高速再生だ。

(嘘よっ! 誰か、嘘と言って!)
 そう現実を否定しても、否応なくその光景は、小冊子の中身と絡まりながらの瞳に飛び込んでくる。
 ナルトとサスケが……。
 放送禁止用語レベルまで、彼女の思考は進んでいた。

(…………ナルトくん……!)

 一頻り再生し終わった彼女は、現実をきっと見据えた。
 潤んだ瞳には、決意と吐き出す事のできない想いが滲んでいる。
 まだ檸檬は彼らの足元付近にある事から、先程から一秒も経っていないことがうかがえる。恋する乙女の頭の回転速度は、火事場の馬鹿力並なのだ。

 一昔前の女なら、電信柱の影でハンカチ片手に涙を拭うところであるが、は、現代の木の葉に生きる女。
 さらに、彼女の気質がそんな事は許さなかった。
 彼女がそう自覚する前に、すでに彼女に忠実な双脚は、ずかずかと音でもしそうな勢いで、彼らに迫っている。
 周囲の景色は、ジェットコースター。
 靡く髪は、道行く人々に残像を与える。

 檸檬が、ころころころころと、彼らの歩む先の三尺ほどで止まった。
 は、三尺手前で止まる。
 ナルトとサスケは、前には檸檬、後ろにはに挟まれた状態。
 彼らも歩いているにもかかわらず、との差が縮まるのは、流星が流れ落ちるよりも速かった。
 彼らが手前で止まった檸檬に並んだ時――

「ナルトくんっ!!!」

 興奮気味の声で呼び止める。
 その声には悲壮感が不必要なほどに漂い、振り返らなければ誰だか判じるのも難しい。
 ナルトとサスケは、肩を組んだまま、何故か双方内側に首を巡らせて振り返った。
 それがまた、の恋の琴線に触れるどころか、ずたずたにしてしまうとも気付かずに。

 二人して内側に向けて振り向いたために、彼らの顔は接近していた。
 キス寸前に見えなくもない(しつこいようだが、視点)。
 そういえば、と彼女は思い出していた。
 アカデミー卒業後の下忍選抜試験で、彼らはキスをしていた、と噂好きの団子屋から聞いた事がある。
(そ、そんな……そんな前から……)
 自分のナルトへのアタックは無駄だったのか、と。
 もう其の頃には彼らは結ばれていたのではないか、と。
 彼女の思考は制限速度を軽く越えて暴走する。

「し、知らなかったの!! ナルトくんが、さ、サスケのヤツなんかと……!」

 振り向いた彼らに放った彼女の第一声。
 振り返った二人は、揃ってわけがわからない、といった顔をしていたが、それすらも彼女は気に入らなかったらしい。

「ひょ、表情ペアルックなんて、全然羨ましくないもんっ!
 でも、教えてくれたって良かったじゃないっ!」
 もはや言っている事すら支離滅裂。
「な、なんだってばよ?」
 ナルトでなくとも、彼女の言動を察する事は困難だ。
「……オレたちがどうかしたのかよ?」
 サスケとしては現状把握のために、聞いたにすぎないのだが。
 それがまた、の逆鱗に触れてしまったようで。

「何よ、何よぉっ! 『オレたち』って! やっぱり、そうやって一括りにしちゃうくらいの仲なのね!」
「「…………は?」」

 さすがに会話の展開の速さについていけない二人。
 しかし、この同時に「は?」もまずかったようで、より一層彼女のテンションは高まった。悪い方向に。

「私だって、好きだったんだから〜〜っ!! それを横から奪うなんて、サスケの泥棒猫っ!! むっつりスケベっ!! スケコマシっ!!」

 一部文脈的におかしい単語が含まれているが、脳内自体が混線状態の彼女にそれは関係ない。
 ナルトもサスケも、彼女のあまりの剣幕に口を差し挟む余地すらなかった。
 情けなくも、ぽか〜ん、という形容が最も適する二人。
 口を半開きに黙した二人に、さらに虫の居所を悪くしたのだろうか。

「ナルトくんなんて、ナルトくんなんてぇ〜〜〜〜!!!
 サスケとイチャパラしてればいいのよぉ〜〜〜〜〜〜!!!」

 ずだだだだだだだだだ……

 砂埃が舞う。
 盛大な音とともに。

 煙幕のような砂塵を残し、はすでに米粒だ。
 取り残される形となった二人は、足元の檸檬にすら気付かずに、振り返った体制のまま、ゆっくりナルトの好きなカップラーメンが出来上がる標準タイム、呆然と立ち尽くしていた。
 そして、顔を見合わせ、世にも珍しい顔で、声にならぬ悲鳴を上げたのは言うまでもない。



***



(…………失恋、しちゃったぁ)

 とぼとぼと歩み行くは、雑木林。
 修行場とは異なり、ただの小さな丘のような所である。
 真昼の日輪が、傷心のの目にはいささか強すぎたようで。
 それが目に染みて、涙を生み出す。

 ――そんなシリアスな場面かどうかはともかく。
 は、その双眸に涙を湛えて、雑木林の開けた丘にごろんっと寝転んだ。
 その反動で数滴の涙が宙を舞う。
 雫となったそれらは、芝生の露となる。
 自らの露など気にしないかのように、は、大の字だった。

(……ナルトくんとアイツがまさか恋仲だったなんて!!!)

 彼女は自分に操られるようにそう思い込んでいた。
 悔しさに拳が白くなる。
 女ではなく、男が恋敵。
 ちょっとは自分が有利になるのではないか、とも考えるが、心の奥深くですべてを否定する自分がいる。
 しかも、心の中ですら、『誰か』の名を呼びたくない様子で、頑なに瞼をぎゅっと閉じておく。
 後から後から、とめどなく溢れ出る泉のように、彼女の涙腺は緩みっぱなしだ。
 しかし、よよよと泣く、と表現するのはこの場合相応しくなかった。
 何より、彼女の瞳には悔しさの灯火こそあれ、弱者の灯火など微塵も宿っていなかったのである。いや、いなかった、と言うのも適切ではない。この場合、宿さぬように心掛けた、というのがより正確であろう。

 瞳を閉じたまま、ファイトォいっっぱぁーっつ!! ではなく、

「サスケのばかぁ〜〜〜〜〜〜っ!!!」

 どちらかと言うと、僕は死にましぇ〜〜ん、に近い。
 ここは、ただの丘であり、顔岩に面しているわけでもない上、空への愚痴であるので、その声は反射する事もなく消えてゆく。
 意外とこれが、ストレス解消になるのだが。
 彼女は、それすらも気に入らなかったらしく、もう一度。

「サスケのあほ〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」

 一日分の肺活量を吐き出した気分のは、返事をする事のない空を潤んだ瞳で睨み付けていた。
 大声で体力を消耗したものの、まだ少し足りない。

…………サスケのウスラトンカチ
「……ウスラトンカチはナルトだろうが」

 ぼそっと小さく呟いた声に、木霊が返ってきた。
 否、木霊ならば同じ事を馬鹿の一つ覚えに繰り返すだけのはずである。
 は、寝転がった体制のまま、声のしたほうを仰ぎ見た。
 声の方角は後ろの雑木林であったので、必然的に、は顎を天に突き出し、首を目一杯伸ばす体制となる。頭に血が昇るようで気持ち悪いが、声の主を確認するためである。致し方ない。
 まあ、彼女もだいたいの予測はついていたが。

「……なんだ。サスケなの」

 やっぱりね、というニュアンスも含んでいる。
 少々驚いたものの、にとって、別に今の盛大な独り言は聞かれて困るものでもなかったので、彼女の態度は実に堂々たるものだった。
 サスケが雑木林から出てきても、大の字に寝転がった体勢のままである。

「『なんだ』、って……ったく……」

 もごもごと口ごもりながら、何気なく、サスケは大の字のの隣に腰を下ろした。

「隣に座っていいなんて、一言も言ってないわよ」
「…………」
 手厳しい。
 ただ、彼女に幾筋もの涙の跡があるのを見つけて、サスケはその端整な顔を顰めた。
 そして、一度、深呼吸をして、溜息のように長い息を吐く。
 その視線がの上で留まる。
「……何か文句でもあるの?」
「…………いや、別に」
 彼女にとって、サスケとの会話は元から苛々する事が多かった。
 クールと巷では騒がれているけれど、その実、口下手なだけではないか、と彼女は思う。
 ナルト一筋のは、サスケの事など眼中になかったので、そう気にしてもいなかったが、隣に座られ、尚且つ「恋敵」となれば別である。
(ナルトを奪った、にっくき敵! 許すまじ!)
 恋の力は乙女を無敵にするものだ。

 サスケは案の定、戸惑っていた。
 彼女を追いかけてきて、隣に座ったは良いものの、どう彼女に接すればよいのか皆目わからない。
 しかし、頬を伝う涙で、彼女が傷ついている事は彼にも察する事ができた。
 だが、どう言葉を掛ければよいのか見当もつかない。
 それでも、時間は経過してゆく。
 これ以上の空白は、をこの場から去らせてしまう恐れがあるとみなしたサスケは、必死に重箱の隅をつつき、ひっくり返す。

「――。お前の好きなヤツって、ナルトだったのか?」
「そうだけど」

 は、この問いを聞いた時、うろ覚えであるが、以前サスケに「好きなヤツいるか?」と問われた事を思い出した。
 思えばあの時からナルトラヴだったなぁ、と目頭が熱くなる。
 そう。は、周囲から見てもバレバレなほど「ナルトラヴ」であった。
(……気付いてないのは、コイツくらいじゃないの?)
 さすがに、サスケの鈍感ぶりには呆れる。
 さして用もないのに、七班を訪ねていたのは、ナルトがいたからであるし、彼女にとって他の男など、かぼちゃやきゅうり同然なのだ。
 それを今更訊くのか、と彼女は呆れを含む視線を彼に投げかけた。

 その視線を頑張って掻い潜っている――ようで直撃を受けダメージを得ているのはサスケ。
 ヒットポイントゲージが赤く点滅する幻が見える。

「ナルトの……どこが好きなんだ?」
「全部。すべて。オール」
 おざなりな返答に彼は詰まるが、一途な彼がめげる事などない。
 それどころか、そのおざなりな答えの内容に、生真面目にもショックを受けてすらいる。
 そう。
 サスケにとってみれば、何故が自分の気持ちに気付かないのか不思議だった。
 自分がのナルトへの気持ちを察せなかった事は棚に上げているが、サスケとて、それとなく、態度で自分の気持ちを示してきたはずだ、と思っている。
 ただ、彼の場合、その示し方が実に微妙であって、彼女を見かけたら挨拶する等、その微妙さは枚挙に暇がない。と言うより、彼は常識的な事を――せいぜいご老人に座席を譲るレベルのアピールを――彼女に対して行っているのである。
 それでも、無愛想で有名なサスケがそのような常識的行為をすれば目立つもので、薄々彼の気持ちに気付いている者もいないわけではない。

 つまるところ、どちらも鈍いのである。
 いや、「好き」という気持ちを全面に押し出している事から言って、のほうが鈍くないかもしれない。
 こういう時に、五十歩百歩、どんぐりの背比べという諺が活躍する場ができるのだろう。

「で、アンタは……ナルトとどこまでいってんのよ?」
 心なしどころか、怒気が含まれた語尾が明らかに強い。
 最も強調されている文節は、当然のように『どこまで』という部分であった。
 さて、ここでセオリー通りに、「一緒に波の国まで」と言うべきか。
 しかし、サスケは自分がそこまでの天然ボケキャラではないことを理解していた。まして、好いたはれたという話題の今の状況では尚更である。

 が、彼が冷静に考えられるのもここまでだ。

 よくよく考えてみれば。
 「自分」と「ナルト」が好いたはれたの話題において、「どこまで」いったのか、という質問をされているのである。

「ご、誤解だ、誤解! 気色悪ぃ誤解だっ!」

 に近づく事で精一杯で、自分が何を目的としてここに来たのかを失念していたらしい。
 が走り去ってからナルトと肩を組んで振り返ったまま、カップラーメンの時間呆然と突っ立って気付いたのは、が誤解しているということだった。
 それで急いで追ってきたのだ。
 ナルトを檸檬と共に道端に残して。
 危うく追ってきた事が無意味になるところだった、とサスケは焦りながらも肩をなでおろすという器用な芸当を見せた。

「何が誤解だって言うの? 公共の場で肩なんて組んで……裏ではイチャパラな事していたクセに」
 イチャパラ?、と顔にクエッションマークを三つほど浮かべたサスケだったが、すぐにそれがカカシの18禁愛読書であった事を思い出し、頬を紅潮させる。
「そんないかがわしい事はしてねぇっ!」
「ふ〜ん……じゃあ、いかがわしくない事はしてるの? プラトニックってヤツ?」
(てか、いかがわしい、ってアンタ何歳よ?)
 は、サスケの頭の固いおっさん並の言葉遣いに呆れつつも、ツッコミの手を緩めなかった。
 自分を差し置いて、ナルトと『イチャパラな関係』改め『純潔交際』なんぞ許せないのだ。

 の視線がどんどんキツイものになっている。
 それを側面から受け止めている――あくまで正面ではなく側面で受け止めている――サスケは、どうにか誤解をとこうと必死だ。
 普段使わない部分、しかも新規の脳味噌を使っているので、彼の頭の回転速度では間に合わせるだけでも修行以上に気を張らねばならない。
 ぷしゅー、とナルトの蝦蟇財布のようにならぬ事を祈るばかりである。
 ちなみに、サスケがの言う「プラトニック」の意味を解していないのも付け加えておこう。

「……いや、いかがわしいっつーか、そもそも、オレたちはそんなんじゃ――」
「っ!! 『オレたち』っ!? また言ったわね?
 やっぱ、そーゆー仲なんじゃないのっ!」

 誤解は深まる一方だ。
 サスケは自分が口下手である事を今日ほど呪った事はない。これからも度々呪う事になるだろうが、現時点では今が最高記録である。そして、その記録は日々更新されてゆくのだろう。
 嫌な汗が、服に隠れたところで流れ続けている。
 この雫たちが、うちは一族マークの入ったシャツに染みを作る前にどうにかこの誤解をとかなくてはならない。

「違ぇよ! 第一、オレは、好きなヤツだって……っ!!」

 サスケは、口を押さえた。
 解決を急ぐあまりにいらぬ事まで口走ってしまったのだ。
(……ちっ。オレがウスラトンカチじゃねぇか)
 口元を押さえたまま、サスケはおそるおそるのほうへと視線を向けた。

 彼女の表情はその前髪に隠されて見えない。
 唯一口元だけが、彼女の様子を窺い知る手がかりだったが、それすらも髪の影に覆われていた。

「…………?」

 そっと名前を読んでみる。
 先程までの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
 木々の独り言まで聞こえてしまうような。
 風の囁きに耳を擽られるような。
 大声で言い合っていた残滓が耳に残っていて、それがまた、現在の静けさを強調している。

「…………れ……った?」

 彼女の手が、肩が、震えている。
 声も普段の彼女からは想像もつかないほど小さい。
 粉雪のようにすぐに溶けてしまいそうな声だ、と恋に脳味噌を溶かされているササスケは思った。
 彼女の陰になっている小ぶりな口唇に視線を送っていると――


「だっれが、呼び捨てでいいって言ったのよっ!!
 この二股野郎っ!!」


 その可愛らしい口が大きく開かれたと思ったら。
 出で来たるは、それには似合わぬ悪口雑言。

「ふ、ふたまた?……なんだよ、それ?」
 わけわかんねぇ、と話の展開についていけないサスケ。
 もう彼もとっくに臨界点を突破している。
 とてもじゃないが、先程まで呼び捨てについては苦情を言わなかったのでは、というツッコミなど入れられるはずもない。

「だって二股じゃない。アンタ、他にも『好きなヤツ』がいるんでしょ?
 その人が男か女かは知らないけどさ。二股かけるようなヤツにナルトを奪われたなんて、もう最低!」

 彼女は『奪われた』という表現を使用しているが、特にナルトと彼女が交際していたというわけではない事をここに付しておこう。
 いずれにせよ、サスケは報われない事この上ない。
 口が滑って告白めいた事を言ってしまったのにもかかわらず、何故か肝心のはその誤解の輪を広げてしまったのである。
 やるせない。
 それが世の中というものだ。少なくとも、サスケにとっては。

「違うっ!」

 サスケはとりあえず否定の言葉を叫ぶ事を選択した。
 ちなみに選択肢は、「無言」と「叫ぶ」と「逃げる」だけであったのだが。
 もう一つ、即行で除外された選択肢に「気の利いたセリフで彼女を振り向かせる」というものもあったのだが、彼のスキルではそれは無謀というものだ。
 そして、その『無謀』な事にチャレンジするほど、彼は甘くもなかったし馬鹿でもなかった。要するにチャレンジできないだけだが。

「何が違うってのよ? あ、もしかして、ナルトくんは遊び?」
 の視線がさらにきつくなった。
「違うっ!」
 否定しようにも、サスケの語彙からはこれが精一杯だ。

(お前が本命なんだ……!!)

 心の中でそう叫んでも、に読心術の心得でもなければ意味がない。
 いっそ口にできれば、とりあえず誤解はとけるにもかかわらず、それを口にできないばかりに話はどんどん崩れていく。

「だから、何が違うの? やっぱりナルトが本命なの?」
「違うっ!」
「じゃあ、何っ!? なんなのよぉっ!?」
 が顔を上げた。
 その顔は怒りでも照れでもない朱に染まっている。
 八つ当たりをしているという自覚はある。

「なんでっ、ナルトくん、とっちゃうのぉっ!!??」

 それでも叫ぶ事はやめられない。
 この言葉は、やけに遠く響くもので。
 サスケのシャツの袖を握り締めたの手が白くなって、それでも、まだ足りないというように震えている。
 叫んだの顔はすぐにまた髪の影に隠れてしまったが、サスケにはわかってしまった。
 彼女は手だけでなく、肩も、すべて震えている。
 彼女の嗚咽がその白くなった手から伝わってくるようだった。

「――違うっ!」

 切羽詰ったように、サスケは声を荒げた。
 それが悲鳴にも聞こえて、は責めるように握り締めたサスケの袖から手を放そうとしたが、それは徒労に終わる。

「さ、サスケっ!?」
「…………

 誰にも取られたくない。
 焦燥感だけなら、サスケのほうがより強い。
 彼女はこんなになる程、ナルトを想っている。
 それを見せ付けられて、しかも、誤解までされて。

 ――言葉では伝えられない。

 これ以上、好きな女に誤解されるのは我慢ならなかった。
 契機となったのは、彼女の涙。
 彼がそれをとどめる術など、ない。
 それに、他の男を想って流す涙を平然と見れるほど、サスケは達観してはいない。
 殆ど衝動的なものだった。

 彼女の華奢な身体に、手を回したのは。
 彼女の涙を自分の胸に隠したのは。

「…………本当に、誤解だ。
 あれはナルトが任務で怪我したから、肩を貸してやっただけだ」

 サスケは奇妙なほどに落ち着いている自分を感じる。
 今は、ただ、の悲しみを取り除きたいとさえ思う。

「――それ、ホント?」

 静かになって、少し気が落ち着いたのか、彼女もサスケの言葉に耳を傾け始めた。
 互いの心臓がとくんとくんと時を刻んでゆく。
 周囲の時の流れよりもやや速く、時が刻まれる。

「ああ。あのウスラトンカチ……任務で滝壺に落っこちやがった」

 は、無言だ。
 ナルトが滝壺に落ちる光景を想像しているらしい。きっと何かに夢中になりすぎて、滝がある事に気付かなかったのだ、と。きっと変な叫び声を上げながら落ちていったのではないか、と。自然との口元に笑いが押し寄せてくる。

「ふぅん……じゃ、ホントに誤解だったのね」
「ああ、誤解だ……それに」
「それに?」

 彼女の鼓動を服越しに感じて、彼はいたたまれなくなる。
 これ以上、自分が口に出すのは卑怯だ、とも思う。
 だが、口は勝手に呼吸をする。

「……それにナルトは……いや、何でもない」

 これが精一杯だ。
 その気持ちを知ってしまったサスケには。
 少し寂しげなサスケの笑みは、彼女には見えない。
 彼女のまるで最初から知っていたような笑みもサスケには見えない。
 には、わかっていた。
 彼が続けようとした言葉の先が。
 伊達に、いつもナルトを見ているわけではないのだ。
 本当は、彼らを「そうだ」と思い込む事によって逃げたかっただけ。
 同性の比べられる存在ではなく、異性の比べられない存在に。

 昨日、ある少女がナルトに告白する場面に遭遇した事から。
 逃げたかった。
 それだけ。
 何か掏りかえるものを欲していた。
 それだけだ。

「そっ……かぁ」

 急にの身体から力が抜けた。
 吐き出しきった安堵のようなものが押し寄せてきたのだろう。
 その体重と芳香が一緒にサスケに圧し掛かる。
 甘い誘惑。
 それすらも、味わえる時間はサスケには少ないようだった。

「――で? いつまで拘束しているつもり?」

 抱き締めている、という表現ではなく、あくまでにとっては「拘束」であったらしい。
 冷たいジト目のおまけ付きという有り難くない視線で見上げられたサスケは、彼女の目の端に先程の涙の残滓を見つけて、どうしようもなく戸惑った。
 好きな女の涙には弱いのだ。
 今は、完全に泣き止んでいるのだけれども。
 瞳が潤いを保っているのもまた事実なのである。

 戸惑いの表情を浮かべつつも、押し黙ったままのサスケの手を剥がすべく、が腕の中で暴れ出した。
「お、おい! 痛ぇって!!」
「放しなさいよ、このウスラトンカチ!」
 誤解が解けても元気になって良かった、と思う反面、この状況はさすがに悲しいと思うサスケ。
 だからウスラトンカチはナルトだろ、とぼそっと言いつつ彼女を束縛していた腕を放す――いや、放そうとした。

「退いてくれる? 早くナルトくんのトコに行くんだから!」

 例え、ナルトに想い人がいても、と言外に匂わせる発言。
 その一言が、サスケの腕に力を込めさせた。

「……行かせねぇ」

 ぽつりと熱が滲み出る。
 彼女を放したくない。
 ただ、誤解をとくだけのつもりだった。あわよくば、彼女を振り向かせようとも思っていたが、自分にはそんな芸当は到底無理だと先刻承知している。
 それでも、を取られたくないという気持ちが先行して、どうにもならない。
 彼女が想いを寄せるナルトの気持ちが誰に向いているのかを知っていれば尚更である。
 ――彼女以外の少女に向いているのを知っていれば。

 は、サスケがすぐに開放してくれるものだと思っていた。
 しかし、サスケの腕は緩むどころか強まった。
 よくよく思い返してみると、サスケの行動は解せない。
(……ぬ、抜け出せないわ! 所詮、女の力は男に及ばない……って、そんな事考えてる場合じゃないわね)
 ナルト×サスケまたはサスケ×ナルトの構図が誤解だとわかり、イチャパラな関係という設定が頭から外れた事で、彼女の思考は冷静さを取り戻していた。
 なぜ、自分を追いかけてきたのか。
 いくら鈍感な彼女でもわかる。
 そう。これまでサスケの気持ちに気付かなかった鈍感なでも。

 サスケがの後を追ってきた。
 それが意味するところ。
 そして、今のサスケの行動が意味するところ――


「――アンタ、自分より先にナルトくんに恋人ができるのが嫌なんでしょ?」


 ぴしっ

 何かが固まる音がした。

 急に固まった腕を楽々とはずして、は彼の腕の中から脱出する。
 腕を退けられた姿勢のまま固まるサスケの目は少し虚ろだったかもしれない。
 一世一代のわかりやすい告白も、彼女にかかればこんな結末になってしまうのだと、心の中で号泣するしかないサスケは、ヒビも入っていたかもしれない。
 サスケはちょっぴり心の隅で期待していた。
 自分が吐き出したこの状況では告白めいた言葉も無効になってしまうとは。
 彼女を抱き締める腕の感覚の名残が侘しい。


「ばーーーーか」


 そんな彼に次に与えられたのは、笑い。
 嘲笑という類ではなく、心底おかしいという笑いだ。
 固まっていたサスケが少し復帰して、立ち上がった彼女を見上げる形になる。
 笑い声のする方向。
 腹を抱えて笑う彼女の姿。
 『ばーーーーか』と言われても、罵倒されていると感じないのが不思議だった。
「…………?」

 やっとの事で搾り出した己の声は、ひどく情けない。
 それがまた彼女のツボに嵌まったらしく、笑いはさらに爆発する。
 あ〜〜〜っひゃっひゃうっひゃぷひぃ〜〜、という笑い袋もびっくりのヘンテコな笑い声が丘に響いていた。

「ふ、腹筋……ふ、腹筋イタ……うぷっきゃははははっ」
 笑い茸を食べたかのような発作は彼女に呼吸困難を引き起こしそうなほどだ。
「……おい?」
 何故彼女が笑い始めたのかわからない、という顔でサスケはその柳眉を顰める。
 箸が転がってもおかしく、サスケが眉を顰めてもおかしい。
 そんな感じで笑い続ける彼女に、さすがのサスケも少々苛々するものがあったらしい。たとえ、それが自分の好きな女でも。
 そう。
 このような訳がわららぬ状況下において、人の限界は早く訪れるものだ。

「ちっ……いい加減にしろよ、
 声には怒気が含まれている。勿論、完全に本気ではなかったが、半分くらいは本気が混じっていた。
 可愛さ余って憎さ3.5倍という中途半端なものだったが。
 そんな視線を向けられたは、ほんの少しだけ反省したようで、とりあえず笑いを収めようと努めるのだが、如何せん、早々収まるものでもなく、彼女の唇の端にはしっかりと笑いの名残が刻まれている。

「ごっめん、サスケ……ぷっくく……いや、アンタがあんまりにも……うひゃひゃ」
 自然の摂理に逆らうのは無理なようだ。
「ったく。いいから笑った理由を言えよ」
 それとオレを『ばか』呼ばわりした理由もな、と付け加える。
 すっかり不機嫌モード――いや、拗ねモードに入ったサスケ。
「あー、わかったわかった。
 理由ね、理由……ホントにわかんないの?」
 目が鈍い、と言っている。

「アンタの『好きなヤツ』は、そんなに鈍くてオトせるほど、安くないわよ?」
 ニヤリ。
「なっ!?」
 サスケの瞳が驚愕に見開かれる。


「ま、頑張って私を振り向かせてみなさいよ。
 女泣かせのナンバー1ルーキーさん?」


 彼女にはわかっていたのだ。
 サスケの気持ちが。
 とは言っても、ナルトの許へ行くのを引き止められた時に気付いたのだが。
 ナルトに想い人がいる事だって本当は薄っすらと勘付いていたのだ。ただ認めたくなかっただけで。
 だから、サスケとナルトが肩を組んで歩いている時あらぬ誤解をしてしまった。
 本当は違うとわかっていたのに。
 所詮は結ばれない男と男だから、男と女で見せ付けられるよりは、マシと意外に傷つきやすいの心が判断したのだろう。

 もう最初から知っていたのに。
 吐き出す契機が欲しかったのだ。
 運悪く、吐き出される被害者はサスケに決定されたというだけのこと。
 ……サスケにとっては、「だけ」では済まなかったようだが。

 まあ、とりあえず。
 彼女は、当分、サスケをからかう事で気を紛らわす事ができるだろう。

「退屈させないでよ?」

 させねぇよ、というサスケの小さな呟きとともに。
 の楽しげな泣き笑いの声が木の葉の里に響き渡っていた。






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