黎明

 彼に出会ったのは偶然でした。今でも、あれは現実に自分の身の上におきた出来事だったのだろうかと、いぶかしむ気持ちがあります。

 私は風の国のある街で画家として暮らしていました。画家といってもまだ駆け出しで、ありあまる才能も、有力なパトロンもあるでなし、 近所の子供たちに教える絵の月謝と、 ほんの時たま、 自分が画家であることを忘れない程度に売れてくれる絵の代金で細々と生活しているというあんばいでした。
 あるとき、離れた場所に住む友人に招かれて、彼のアトリエへ出向くことになりました。風の国の南、大砂漠地帯のほとりの小さな村にあるアトリエです。私は懐かしい友人と語らうのを楽しみに、旅の支度を始めました。
 困ったのは村への行き方です。砂漠を迂回するルートがあるにはあるのですが、当時の私の懐具合では、その道を行くのはカネも時間もかかりすぎ、断念せざるを得ませんでした。しかし、以前私の絵を買ってくれたある商人の口利きで、砂漠を横断する隊商に同行できることになったのです。最低限の旅費しかかからないこの幸運に感謝し、私は隊商の人々とともに砂漠へ足を踏み入れました。
 旅は途中まで、きわめて順調でした。しかし、おそらく砂漠のちょうど中ほどに差し掛かったころだったと記憶しています。  隊商が、 黒い突風のように現れた盗賊の一団にに襲われてしまったのです。隊商には護衛もついていたのですが、屈強な盗賊たちの前には居ないも同然でした。仲間達はたちまち切り伏せられ、悲鳴と怒号が交差し、時ならぬ修羅場にあたりは血の海になったのです。
 外から聞こえてくる、すでに誰のものか判別できない叫び声に身を震わせながら、私は荷台の荷物の隙間に隠れていました。出発する前、一頭分の騎乗ラクダの手配が間に合わず、私は荷台に乗せられていたのです。
 暑く薄暗い荷台の中で、私は護身用に持たされていた小太刀を鞘から抜きました。いざとなったらこれで自分の身を守らなくてはなりません。しかし護身術の心得などない私が、はたして生き延びられるだろうか。あっという間に殺されるに決まっている。暗がりで、小太刀の刃が他人事のように白く光っています。死ぬか生きるか、心の中でめまぐるしく入れ替わる二つの可能性に緊張は極限まで達し、心臓の動悸にあわせて全身に冷たい汗が後から後から流れ出てました。
 突然荷台が揺れ始めました。荷物が崩れ、積んでいた堅い木箱が足首を直撃し、私は大きな悲鳴を上げました。顔から血の気が引くのがわかりました。慌てて口を塞ぎ、小太刀を抱えて縮こまりました。見つかっただろうか。今すぐにでも荷台の中に盗賊が入ってくるのではないか。
 しかし、誰も来はしませんでした。それどころか荷台の揺れは止まり、あたりは急に静かになったのです。一体どうしたのか。必死に耳をそばだてましたが、なにも聞こえてきません。もっとも、なにかが起きていたとしても、荷物の下敷きになっている私にはどうすることもできません。 そう長い時間ではありませんでしたが、不安と恐怖に満ちたひとときでした。
 やがて荷台の入り口から誰かが中に入ってきました。床に倒れている私の側で、足音が止まりました。恐る恐る見上げると、大柄な男が私を見下ろしています。そして、おそらく怯えきっていたであろう私の顔と、これしかすがるものがないように握り締めていた小太刀を見比べると、固く握り締めた手からやすやすと小太刀を取り上げ、まるで荷物のように私を担ぎ上げて外に連れ出したのです。
 外には、血まみれで死んでいる隊商の仲間たちと盗賊、そして見知らぬ二人の人物が立っていました。私は二人のそばに降ろされ、彼らの注目を浴びました。
 一人は黒い服を着て、頭には頭巾をかぶっていました。顔に隈どりがほどこされていたため表情まではわかりませんでしたが、若い男のようでした。もう一人はマントで体をすっぽりと隠し、頭にターバンを巻き、目だけを出して、残りの顔下半分は、スカーフを使ってマスクのように覆っていました。
 私を見るその目は、緑色でした。
 くすんだ色の布に分断された顔の中で、緑色の目はとても目立ちました。そして美しかった。ぎらつく太陽と砂とに炙られ、なにもかもが白っぽく見える砂漠の中で、緑色の目は、まるでそこだけに命が宿っているかのような不思議な力があったのです。私は、足の痛みも、頭の中で点滅する、危機は去っていないと警告する信号に応えるのも忘れ、ただぽかんと、男か女かもわからない人物の緑色の瞳をみつめました。
 生きていたのはこいつだけだという声で、我にかえりました。私を担いできた男が二人に言ったのです。とたんに、忘れていた恐怖が足元からじわじわと這い上がってきました。
 彼らが盗賊を倒したのだ。  何者なのだろう。  私は殺されるのだろうか。 再び緊張にとらわれました。冷たい汗が額をつたわって、あごの先まで幾筋も流れ落ちてきます。口の中は乾いた唾液でねばつき、心臓が信じられない速さで動くのを感じました。しかし無力な私は、ただ虫のように砂の上に這いつくばったまま、彼らを見上げることしかできなかったのです。
 足に怪我をしていると、大柄な男が言いました。頭巾の男が、ターバンの人物になにか耳打ちをしています。 ターバンの人物は、何度か頷きかえしていましたが、私に対して深い関心を持っているようには感じられませんでした。
 殺されるのだろうか。私の不安はあまりにもその一点に集中していたため、後から思い返しても、その前後の記憶に曖昧なところがあります。強い日差しにくっきりと落ちる影も、死んだ盗賊の頬に乾いてこびりつく血の色も、大柄な男のサンダルから見えた爪の形も、なにもかも見ているはずなのに、パズルのピースがところどころ抜け落ちるように、思い出せないところがあるのです。
 ターバンの人物が「連れて行く」と一言いいました。若い声だと認識したときには、もう目隠しをされていた。緊張がピークに達したとき、腹に当身をくらって、私は気を失ったのです。

 目を覚ますと、ある部屋のベッドに横たわっていました。 ベッドと、小さなテーブルと椅子があるだけの殺風景な部屋でしたが、大きな窓が一つついています。夕暮れらしく、部屋の中は薄暗いのですが、窓から見える空は鮮やかな朱色に染まっていました。
 怪我をした足首には包帯が巻かれていました。ベッドからゆっくり下ろすと、鈍い痛みがあるものの、歩けないほどではありません。私は静かに窓へ近づきました。自分がどこにいるのか確かめたかったのです。
 土壁でできているらしい無数の建物が、岩山の連なりのように並んでいます。 いや、それは岩というより、巨大な蟻塚か、鍾乳洞にある、下から上に向かって伸びていく鍾乳石の、いびつな円錐形を思わせました。その鍾乳石に似た建物の一つ一つに、窓が規則的な間隔で整然と並び、ところどころに明かりがついているのがわかりました。建物の最上部から別の建物の最上部に向かって、黒い電線がいくつも張り巡らされ、風が吹くたびにたわみます。街並みのずっと向こうに、山頂部が平らになった山並みが見えました。きっと、街全体をかこんでいるのでしょう。
 こんな街は知らない。一体、どこなのだろう。
 外では風がひっきりなしに吹き続け、その音がガラスを通して聞こえてきます。夕焼けを見つめる私の脳裏に、一瞬、緑色の瞳がひらめきました。
 突然部屋に明かりがつきました。振り向くと、手に盆を持った若い男が入り口に立っていました。
 「気がついたか。気分はどうだ」
 食器が乗った盆をベッドのわきのテーブルに置くと、窓際に立ち尽くしたままの私に向かってまた言いました。
 「あまりうろうろするな。座ってろ」
 メシを持ってきた。食べてくれ。
 おずおずとベッドの端に腰を下ろしました。男は丸椅子に座り、腕組みしています。距離が近くなったことで、彼がまだ若い、ひょっとしたら二十歳にもなっていないのではないかというほど若い男であることがわかりました。私は緊張しながらも、掠れた声で彼に問いかけました。ここは、どこでしょう?
 男は少し考えるような顔をしたあと、低く明瞭な声で答えました。砂隠れの里だと。私は忍の里にいたのです。
 このときの私の驚きがどれほどのものであったか、ご想像ください。
 忍の里。たしかにこの国には、そう呼ばれる場所が存在していることは知っています。国の重要な戦力である忍たちが住む里があると。しかし、大名や役人であればいざしらず、私のような市井に住むごく普通の人間には、忍の里など、雲の上の神殿や海の中の城といった、おとぎ話の中の世界と同じようなものなのです。その、自分とはまったく接点のない世界にいるとは。この部屋が、目の前の男が、窓の景色が、なにより、こうして麻のシーツを敷いたベッドに腰掛けている自分自身が、まるで物語の登場人物になってしまったかのような、奇妙に現実感のないものに感じられました。
 私の狼狽振りがあまりに大きかったからでしょう。男は苦笑すると少し声を柔らかくしました。
 「もし砂漠に置き去りにされていたら、あんたは今頃どうなっていたと思う?一人でもなんとかできたというなら、あんたは砂漠を知らなさすぎる。あんたは民間人で、仲間はみんな死んじまって、一人だった。 オレたちは偶然、盗賊に襲われた隊商を見つけた。盗賊を倒せと命じられたから倒した。 あんたの仲間たちは全員殺られちまっていたが、あんただけは荷台の中に隠れていて無事だった。あんたは怪我をしてた。連れ帰ると命令されたから、連れてきた」
 彼が砂漠で出会った黒頭巾の男だということに、やっと気づきました。 隈取りをしていたために素顔はわからなかったのですが、こうしてまじまじと顔を見ると、獅子っ鼻や、ややつり上がり気味の小さい目に見覚えがあります。
 訊きたいことは山ほどありました。しかし、口を開きかけた私を男は手で制しました。
 「質問はなしだ。わかってると思うが、もともとこの里は、あんたのような人間が来ていい場所じゃないんだ。必要なことしか話さないからよく聞いてくれ。あんたはこの里にいる間は安全を保障されている。 必ず、無事に砂漠から出してやる。今はこれで満足してくれないか。余計なことを訊いてもオレたちは答えないし、あんたも知る必要はない」
 さあ、さっさとメシを喰ってくれ。そして寝てくれ。明日の朝早く出発するぞ。
 小さい土鍋には、豚の角煮がいくつかのった粥が入っていました。。食欲はなかったのですが、全部食べろと強い口調で命じられました。腹が減ると気力まで減るからな。
 食事をしている間中、男は頭をかきながら、手帳のようなものに何かを書き付けていましたが、私が食事を終えたのを確認すると、盆を持って部屋を出ようとしました。「用があるときはドアを三回ノックしてくれ。誰か来る」
 なぜそうしようとしたのかわかりません。気がつくと私は彼を呼び止め、叫ぶように問いかけていました。あの緑色の目をした人は誰ですか?
 彼はおどろいたように振り返り、私の顔を少しの間見つめてから静かな声で答えました。
 「それこそ、あんたが一番知る必要のないことだ」
 力なくうなだれる私に、けれど彼はこう言ったのです。「あんたをここに連れてくるよう命じたのはあいつだ」
 そして唇をゆがめると、皮肉そうな、そのくせ妙に魅力的な笑顔をつくりました。
 「おまえ、運がいいじゃん」
 出発は夜明け前だ。ちゃんと寝ておけよ。
 部屋の明かりを消して男は出て行きました。暗がりの中に一人残された私は、またぼんやりと窓の外を眺めました。日は落ち、空は、どんな絵の具でもこの色を出すのは不可能だろうというような、素晴らしく美しい濃い紫色に変わっていました。
 あんたをここに連れてくるよう命じたのはあいつだ。
 黒頭巾の男がいったその言葉を、何度反芻したことでしょう。 紫色から群青色になり、やがて黒に色を変える空を見つめながら、心の中で繰り返しつぶやくたびに、なにか胸の奥がざわつくような感覚にとらわれました。そのざわめきは、けして不快ではない、それどころか奇妙な心地よさを伴っていました。
 外が完全な暗闇になり、鍾乳石の家々に灯った明かりが、 細い光の帯のように見えるころ、昼間の疲れと食事をした満腹感から、急激に眠気におそわれました。私はベッドにうずくまるように横になり、目を閉じました。外から聞こえてくる、激しい、そして寂しい風の音にあわせるように、血まみれで砂漠に横たわる隊商の仲間の姿、死んだラクダの匂い、人形のようにサボテンにひっかかっていた盗賊、男の大きな指、頭巾の下に浮かぶ隈取り、そして緑色の二つの瞳が、まぶたの裏にめまぐるしく入れ替わりながら現れました。それも長くは続かず、疲れきっていた私は、沼の底へ引きずり込まれるように眠りに落ちていったのです。

 ドアを叩く音で目が覚めました。黒頭巾の男とは別の男―忍でしょう―が部屋に入ってきて、まもなく出発する旨を伝えてくれると、部屋を出るよう私を促しました。部屋の中も外も、まだ真っ暗です。のろのろと起き上がると、足を引きずりながら男についていきました。
 連れて行かれたのは、里をとりまく外塀に設置されている監視台でした。 男は私を横抱きにすると、階段状にそびえる監視台の最上階まで一気に駆け上がり、降ろしてくれました。 おそろしく高い場所でしたが、後ろを振り返ると里を一望でき、正面には無限に広がるかのような砂漠を見渡すことができるのでした。
 空にはまだ星が瞬き、風が冷たかった。 砂漠がこれほど寒暖の差が激しい場所だとは知らなかった。まるで心をささくれさすような冷たく乾いた風が、砂漠を渡って里へ吹き抜けていくのです。
 上着の襟をかきあわせ、私は空を見上げました。この高さのせいか、空との距離が近いような気がしました。月はまだ天中にあります。彼方に目をやると、砂漠と空の隙間が明るくなりはじめていました。近くに誰かが立っていることに気づいたのはこのときです。その人物も、私の視線を受け止めるようにこちらへ顔を向けました。
 近づく夜明けに押され、弱々しく輝く月の光を浴びながら振り向いた彼の姿を、生涯忘れることはないでしょう。
 立っていたのは、一人の少年でした。
 くるぶしまである、くすんだ色のマントが全身を包んでいますが、背筋がすっきりと伸びており、しなやかな筋肉がついていることを予感させます。どんな足場の悪い場所でも楽々と走れるような、非常に敏捷そうな印象がありました。レンガのような赤茶色の髪。目の周りが縁取ったように黒ずんでいるのが、化粧などではなく、肌そのものが黒く変色しているのだと気づくのに、しばらくかかりました。
 顔立ちは整っているといっていいでしょう。引き締まった、知恵を持つ美しい野生動物のような顔は、しかし面を張り付かせたかのように動きませんでした。似たところはないのに、なぜか昨日の黒頭巾の男を連想しました。 彼には、いかにも男らしい線の太さがありましたが、この少年もまた、細身の体格なのに、ナイフで厚く削りだしたような輪郭をしています。なによりそのたたずまい。彼の無表情な皮膚一枚の下に、厳しい自然環境に生きる人間特有の、相手を骨ごと噛み砕いてしまうような野生の獰猛さが潜むのを感じました。そしてそれは黒頭巾の男も身に纏っていた、共通する雰囲気なのでした。
 私を見つめる、黒い額縁のような目にはめ込まれた彼の瞳。緑色でした。腕組みをしてたたずむ彼は、緑色の瞳を持つ少年でした。彼がターバンの人物に違いない。直感しました。
 少年は私を見ました。それだけで私は、猛禽類に狙いを定められた小動物のように動けなくなってしまいました。
 「もうすぐ夜が明ける。太陽が昇りきるころ、砂漠を出ることができるだろう」
 古代の楽器の音色のような、高くも低くもない、なめらかな声でした。それだけ言うと、もう私に対する興味を失ったように、黒から群青色へ変化を始めた東の空に、再び視線を戻しました。
 少年がこの監視台でなにをしているのかはわかりません。しかし、砂漠の果てを見つめる少年の横顔は、どこか宗教画めいた不思議な印象を与えるのでした。
 やっとあの人に逢えたという悦びの後、これから里を離れるのだという現実を思い出し、愕然としました。焦りと、ここで少年との縁を断ち切ってしまいたくないという想いに駆られ、必死に声を振り絞りました。 「助けてくれて、ありがとう」
 少年のいらえは短いものでした。「気にすることはない」。こちらを振り向くことすらありませんでした。
 あと少しでいい。ここに留まることはできないだろうか。ここに二人で立っていたい。冷たい風にあおられながら、砂漠の果ての地平線から太陽が昇って行くさまを、二人で見届けたい。私は強く、強く願いました。これほど強くなにかを願ったことなど、かつてないでしょう。しかしすでに、四人の忍たちが音もなく私たちの側に立っていたのです。
 四人のうち一人は若い女性でした。少年に近づくと、小声でなにか話しかけました。砂漠地方に多い金褐色の髪をしています。少年に耳打ちされながら、彼女がこちらを向きました。ちょっと勝気そうな、猫めいた顔立ちです。面差しが少し少年と似ていました。血縁者だったのかもしれません。
 「出発するぞ」
 忍の一人が言いました。再び目隠しをされる前、もう一度少年を目に焼き付けようとしました。赤茶色の髪をなびかせながら、彼は無言で私を見ていました。
 昨日砂漠で出会ってから、少年と関わった時間は五分にも満たないでしょう。しかし私はすでに心の中に、少年に対するある拭いがたい想いを抱いていました。砂漠の強い日差しの中で少年の瞳を見てしまってから、雲のようにもやもやと広がっていたある感情。目隠しを顔に当てられた瞬間、その感情の正体を、私ははっきりと悟ってしまったのです。
 今度は腹に当身をくらうことはありませんでした。視界をさえぎられたまま誘導されて、ぎこちなく誰かの背中におぶさりました。監視台から砂漠に跳躍し、素晴らしい速さで走り始めた彼らの背中にしがみつきながら、私は、引き返してくれと叫びそうになるのをこらえるだけで精一杯でした。
 数時間後、どこかに降ろされました。ゆっくり十数えてから目隠しを外すよう命じられ、従いました。目隠しを外すと、彼らはもうどこにもいませんでした。そこはある道の真ん中で、足元には旅費として充分足りるだけのお金が入った袋があり、道の先には、訪れるはずだった友人のアトリエがある村の入り口がありました。

 その後、どうにか家までたどり着いた私は、ある日、買ってきたばかりの画材の中から白い厚手の紙を取り出し、机に置きました。砂漠の少年を描こうとしたのです。
 ところがどうしたことでしょう。 ペンを握ったとたん、私はまったく絵を描き出すことができなくなってしまったのです。
 目を閉じれば、少年の髪の色も、いくぶん幼さの残る頬の丸みも、ひきしまった口元も、まざまざと思い出すことができます。ところが、いざ描こうとすると、彼の姿は砂粒のように粉々に砕け、あっというまに霧散してしまうのです。紙を前にしたまま、一本の線すら描くことができず呆然と一日を過ごしたことは、一度や二度ではありません。
 それでもこわばる右手をだましだまし、ゆっくりと描きすすめ、やっと出来上がったのがこの絵です。


 絵を描こうと決めてから、彼の夢を何度か見ました。
彼はいつも、緑の葉陰に隠れるようにしてたたずんでいます。  きっと、緑色の瞳のイメージがそうさせるのでしょう。 少年はけしてこちらを向こうとはしません。 私が見つめることができるのは、少年の繊細な横顔の線だけです。だからこの絵は、私の夢の中の少年といっていいでしょう。
 これを描き上げるまでに、長い、本当に長い時間がかかりました。どこにどう整理してしまえばいいかわからない行き場のない感情を抱えたままの辛い作業でした。何度投げ出そうとしたかわかりません。 しかしそのたびに、耳の奥に激しい風の音が聞こえるのです。描いてしまえと耳元で囁く風に後押しされ、ため息をつき、迷いながらペンを取る。その繰り返しでした。最後は、ほとんど彼への執着のみで描きあげました。
 私は彼に逢いたかった。たとえ紙の上でもかまわない。絵を描くことで、私は彼と、もう一度出逢いたかったのです。
 あれから何度か、砂隠れの里を訪れようと計画しましたしかし他国をも巻き込んだ大きな戦争が始まったことで、民間人の砂漠地帯への立ち入りは固く禁じられました。 私があの場所を訪れることは、もう二度とかなわないでしょう。
 少年の名前はなんというのか、どんな立場の人物だったのか、何一つ知りません。彼にしても、もはや私を憶えてはいないでしょう。でも私は彼を憶えている。
 黎明のとき、地と空の果てを見つめる少年がいた。となりには私がいた。それだけで充分です。
 
 今、少年がどうなっているかを知る術はありません。いずれにせよ、もう何十年も昔の話です。

 

*リンクさせていただいている『キメラの事務室』様で06年6月一杯フリー配布されていたイラスト&小説です。
初めて読んだ瞬間 あまりの素晴らしさに言葉を失いました。
おとぎ話のような不思議な語りとアールヌーボー風のイラストの両方の魅力があいまって、我愛羅の魅力がいかんなく表現された作品だと思います。