summer train
「もうついていけない」
そう言って教室を飛び出した。放課後の廊下に走る足音が響く。ところどころ調子の外れた吹奏楽部の演奏がまるで私を笑っているようで、悔しさに拍車をかけた。 捲れ上がるスカートも気に留めることなく階段を降り二階と一階の間の踊り場で足を止めても、私を追ってくる足音はなかった。
「…バカ」
『誰もついてこいなんて言ってない』、そういうことだろうか。十段と少しの階段を降り、俯いたまま廊下を歩く。コーヒーと煙草の匂いの入り混じった職員室を通り昇降口で自分の靴に手を伸ばせば、否応なく二列右にある見慣れた靴が視界を掠めた。いくら注意しても改善の余地も見慣れない踵の潰れたスニーカーを尻目に靴を履き替える。指先に引っかけたローファーを離すと、固い靴底と床のぶつかる乾いた音が耳を突いた。いつも二足同時に聞こえていた音が、今日は一足だけ。今日だけじゃなく、この先ずっと、なのだろう。
昇降口から一歩踏み出すと、強い西日に目が眩んだ。ここから見上げればつい先ほどまで自分がいた教室は見ることができたけれど、敢えて見ようとも思わない。もし彼がこちらを見下ろしていたとして、今さら戻るわけにもいかないし、見下ろしてもいなければ惨めなことこの上ないからだ。校門を出て、駅まで続く緩い下り道を歩く。あれほどうるさく鳴り止むことを知らなかった蝉の声も今は疎らで、蜩(ひぐらし)の物寂しい声が時折聞こえる程度だった。
幸いにして背中が汗ばむほどの強い逆光が味方して、道行く人に顔を窺われる心配もない。それでも念には念を入れて俯いて歩けば一つだけで伸びる影に目が留った。気がつけば私の周りには視覚にも聴覚にも胸を塞ぐ事柄で溢れていて、それらを振り切るように私は走り出していた。この影と同じように、振り切れないことなど百も承知で。
*
最終下校時刻まではまだ少し時間があるからか、駅に着いても人の姿は疎らだった。もともと急行か鈍行の電車しかない小さな田舎町だ、通勤通学時間さえ外してしまえばその利用人数はたかが知れている。
無意味に長いプラットホームを見回せばところどころに置かれたベンチに目が留る。久しぶりの全力疾走に悲鳴を上げる肺を労うように腰を下ろすもののつい右側を空けてしまう無意識に嫌気がさした。たかだか男の一人にそこまで律儀になる必要なんてどこにもないのに。たかだか、一人の。たった、一人の。
やがて訪れた鈍行列車に乗り込む。車内はまるで自分が異世界にでも迷い込んだのではないかと錯覚するほどがらんとしていて、その車両には私一人しかいない。
他の乗客がいないのをいいことに、足を投げ出す。踵がずれて脱げかけたローファーもそのままに、動き始めた景色を眺めていた。
ひとつめの駅。初めて会った日のことを思い出す。一番後ろの席、つまらなそうな顔。隣の席に座るのが少しだけ怖かった。
ふたつめの駅。初めて話したことを思い出す。変な口調、と笑う私に変な顔じゃん、と憎まれ口。生意気だけど悪いやつじゃない。
みっつめの駅。初めて触れたことを思い出す。教科書を忘れた彼に近付けた机、近付いた腕。真新しい半そでから伸びる腕は固く、温かい。
よっつめの駅。初めて一緒に帰った日のことを思い出す。ついてこないで、それはこっちのセリフじゃん。本心でない悪態の応酬、長い道のりが短く感じられた。
いつつめの駅。初めて二人で寄り道した日を思い出す。ひと際海に近いこの駅で降り、取り留めのない話をしながら海辺を歩いた。その日もこんなふうに海はどこまでも輝いていて胸は高鳴るばかりだったのに、どうして今はこんなに苦しいのだろう。砂に足を取られた私の腕を引き寄せて、『まったく世話が焼けるじゃん』と照れ笑ったあの日が遠い昔のようだ。
電車はなかなか動き出さない。急行の通過待ちだ。やがて窓越しに流れていく電車の姿に、私と彼を映して胸が塞がる。初めて一緒に帰って以降、私たちはあの列車のように急速に流れていった気がする。はっきりした告白とか、そんな始発駅はどこにもなかったけれど。
むっつめの駅、初めてバイクに乗せてもらった日のことを思い出す。免許取り立て、少しの不安もあったけど、しがみついた大きな背中に安心した。
ななつめの駅、初めてキスした日のことを思い出す。『目ぇ閉じろ』、意外とロマンチスト。それとも単に恥ずかしかっただけ?記念すべきファーストキスは、学食のハンバーグ風味。
背中の後ろで通り過ぎていく遮断機の音。遠のいていく音がどこか寂しげに聞こえるのはなぜだろう。近付く時と離れていく時に違う音に聞こえるのは波長の違いだ、って何かの授業で聞いたそれはまるで私たちみたいだ。なんとなくでも、付き合ってるって実感してしまった瞬間から何かが変わってしまったのだろう。不安とか、嫉妬とか、猜疑心とか、それまでなかったものばかり増えていき、気がつけばこうなる前には溢れていたきれいな感情なんてどこにもない。
やがて流れ始めた終点を告げるアナウンスに目を閉じる。頬を伝う涙の生温さ、手の甲に落ちた冷たさのギャップに打ちのめされた。
――もう、終わったことなのだ。そう自分に言い聞かせるようにして涙を拭う。頭の切り替えが早いのは女の特権じゃないか。これからのことを考えよう。
しかし実際に考え始めてみればそれはそれで悩む。明日はどんな顔して会えばいいのだろう、とか
これからどんな態度をとればいいのだろう、とか。本音をいえば会いたくないけれどこんな理由で学校を休むなんて馬鹿げているし、悔しすぎる。あからさまな態度をとればゴシップ好きの友人から質問攻めを受けるのは目に見えている。
「…はぁ」
クラクラする頭を押さえながら立ち上がり、開いた扉から下りる。あれほど強かった西日はすっかりその身を潜め、足元に映る影の輪郭はとても曖昧だった。人も疎らな、プラットホーム。それはどこか一義的で、印象的で、途方もない。
俯いて歩く私の視界の隅に、不意にベンチに座る人の足が見えた。なぜこの人は目の前に電車があるのに乗らないのだろう、と考えたのは一瞬。次の瞬間に私はその靴に見覚えがあることに気がついた。
少し汚い、踵の潰れた靴。ゆっくりと視線を上げてみると、その先には私を追いかける様子もなかったカンクロウの姿があった。
「よう。遅かったじゃん」
「…なんで、ここに」
「オメーが乗ってる間に急行が通過しただろ」
「…そうだけど、そうじゃなくて」
「あ?意味わかんねーよ」
てっきりまだ学校にいると思っていた人間が目の前にいるのだ、私は酷く動揺した。それはもう、鞄が肩からずり落ちたことも、気にならないくらい。
「誰もついてこいなんて言ってねえ。俺が勝手に待ってるだけだ」
カンクロウは目を合わさずにそう呟いて、私を引き寄せた。彼の匂いに包まれて、今まで胸を塞いでいた否定的な考えがあっという間に溶けていく。温かさに、匂いに、感触に、視界が滲んで、込み上げる嗚咽に喉がひくついた。
「なに泣いてんだよ」
「…泣いてない」
へいへいそうですか。カンクロウはそう言って、そのまま私の肩に顔を乗せていた。普段なら絶対にこんな場所でこんなことしない彼が、珍しい。他に誰もいなければ、いつもこんな感じなのだろうか。
「ねえ」
「なんだよ」
「キスしよっか」
「…はぁ?!」
一瞬頭の中で私の言葉を整理したのだろうか、返答まで確かに一瞬の間があった。
「嘘だよ」
「…、て…っめええ!!」
大声で叫ぶカンクロウの身体からするりとすり抜けて、駅の改札へと向かう。泣き笑いで彼の先を行く私に、背後から『もう知らねえ!』という声が聞こえた。だって可笑しいじゃない。ついさっきまで“もう終わったのだからこれからのことを考えよう”だなんて思っていたのに、もうキスするだのしないだの。
見上げた空に、小さく瞬く星を見つけた。明日は、明日も。きっといい日だ。
" summer train " is over !
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『404』礒さんより頂きました!というか、ねだって強奪しました(笑)。
我愛羅スキーさんの礒さん、初のカンクロもの、言葉を選んで選んで作るその作風が独特で、パラレルなのにしっかりカンクロウで、読んでるうちにヒロインのセーラー服の乙女に変化してしまいます(ド厚かましい/笑)。
実は「突然はずかしくなってしまって」サイトから下げてしまわれた作品なのですが、それに気がついた私が「なんで、なんで、カンクロウどこ?どこ?」と子供のようにしつっこくつきまとうものですから「しょーがね〜な」(礒さんはそんなこと言ってません/脚注)と恵んで下さったのです☆
カンクロウ@学生服、ぶっきらぼうで、まっすぐで、憎たらしくて、そのくせ優しい。
そんな彼のちょっと意地っ張りなカノジョになってもう一度青春したいなあ、と思っちゃう作品です。
礒さん、遠慮ないおば班にこんなかわいいお話をありがとうございました!!